Jun 19, 2011
FX業者のイメージが変化している。
FXは悪いイメージがあったのだが、最近では週刊誌にも載ってないようになってきたし、ニュースにもならずきたため、悪徳のFX業者ではなくなってきたものと考えている。しかし、生き残ったのFX会社にも試練が待っているようだ。レバレッジ規制などFX業者で見ると、収益の機会を剥奪しているということだった。手形割引は、まだ有効期限がされていない手形を法で定められた方法で、第三者に譲渡する(裏書譲渡)と、満期までの利息や手数料を除いた金額で換金することです。満期になるまで待って両替するよりも金額は減少しますが、すぐに現金を必要とする場合によく使用される方法です。これは、割引手形を割引手形(する手)と手形割引を依頼した人が割引依頼人の手形を割り引く者(一般的に銀行などの金融機関)を割引人だとしています。
◇85歳、今語る真実
「おーい、日本が見えたぞ」。1949年10月22日、シベリア抑留者の引き揚げ船「信濃丸」は京都・舞鶴港に近づいていた。船上からの声に船底で寝ていた帰還者たちは我先にと甲板に上がり、「万歳、万歳」と叫ぶ。3日前、出港したナホトカ港は一面真っ白い雪だったのに、緑がまばゆい。「この緑したたる日本の美しい景色を見たとき、誰がおれをシベリアに連れてきたのか。なぜ日本が戦争に向かっていったのか。激しい憤りを覚えました」
今月13日、芦屋市内の集会所で、シベリア抑留体験を語る細川俊三さん(85)=神戸市東灘区=の姿があった。全日本年金者組合芦屋支部主催の「戦争を語り継ぐ会」。講師として招かれた細川さんは、旧ソ連により4年間抑留され、零下40度の酷寒のもとで重労働を強いられた「奴隷のような生活」について、約3時間にわたって語り続けた。約30人が聴き入った。
細川さんは19歳の1945年3月、南方に兵力を奪われた旧満州(現中国東北部)を統括する関東軍の「根こそぎ動員」で出征した。見送ってくれた母は別れ際、涙ながらに懇願した。「早く帰ってきて。戦場では決して前に進まないように」
細川さんの部隊は一度も戦闘がないまま武装解除され、初めて日本が負けたことを知った。「ああ、これで母さんに会える」と安堵(あんど)した。ソ連領のクラスキーノに集められた旧日本兵は同年10月、ソ連兵から「ダモイ(ロシア語で「帰国」)」と促され、貨車に乗った。細川さんは「日本に帰れる」と信じていたが、磁石を持っている戦友がいて、東に向かうはずの貨車が北に向かっていることが分かった。着いた先は雪に覆われたムーリーの収容所だった。
「零下40度は果たしてどんな世界か。冷蔵庫の冷凍室が零下18度ですよ」。細川さんは目の部分だけ開いた防寒ずきんをかぶり夜間作業に出るが、大木を3〜4本も運ぶと大汗をかく。顔から噴き出した汗はずきんの外に染み出し、「チリン、チリン」と風鈴が鳴るように音をたてて凍り、長さ2センチほどの「つらら」がぶら下がった。
朝食は、マッチ箱大の黒パン1個と塩スープ。昼食用にもう1個黒パンが用意されるが、よく盗まれるので朝に食べてしまう。昼は雪を溶かした湯だけでしのいだ。夕食は雑穀を煮たもので、噛(か)んでも噛んでも消化不良を起こし、慢性的な栄養失調となった。
労働にはノルマが課せられ、達成できなければ夜9時、10時まで残業。食事も減量された。
この「酷寒」「飢え」「重労働」がシベリア抑留の「地獄の三重苦」だった。加えてソ連は抑留初期、旧日本軍の指揮系統を温存させ、収容所の秩序に利用した。戦争は終わったにもかかわらず、上官は下士官をこきつかう。三重苦と理不尽な秩序で45、46年の2年間に死者が集中し、4万人以上の命が失われた。多くは細川さんのような初年兵だったという。
「母に会いたい」。その一心で4年間の抑留生活を耐え抜いた。だが、母は再会できぬまま48年7月30日に亡くなっていた。「日本に帰らなければよかった」。帰国して母の死を知らされた時、そうつぶやいた。細川さんは母の話になると、今も声が震える。
会社役員を辞した00年ごろから、胸に押し込めていた「シベリアの真実を伝えたい」という思いがもたげ、語り部活動へと駆り立てた。約10年間、頼まれればどこにでも出かけた。
「シベリアを等身大で伝えるのは難しい。ただ、聞いた人には私の思いを少しでも持ち帰ってほしい」。そう願う細川さんは背筋が伸び、張りのある声でとても85歳とは思えない。最近は、体力的に厳しくなってきたというが、「命尽きるまでしゃべろう」という意欲は変わらない。
「どうか、くれぐれも平和を守ってください」
細川さんがそう結んで芦屋での講演を終えると、熱心にメモを取っていた女性が、発言した。「上の世代が大変な体験をされたからこそ、私たちの命がある。シベリアを風化させず細川さんの生の声を次の世代に伝えたい」。西出和子さん(63)=神戸市西区。母の弟がシベリアで帰らぬ人となった。弟はどこで亡くなったのかも分からず、気に病みがら母も逝った。教師だった西出さんは、大学で学び直している。細川さんの話を若い仲間に伝え、戦争をしないために何ができるか考えていきたいという。
細川さんは西出さんに駆け寄りささやいた。「呼んでください。いつでも私の生の声をお聞かせしますよ」【桜井由紀治】=おわり
〔神戸版〕
8月16日朝刊
【関連記事】
ダモイの夢:シベリア特措法成立1年/5 体験の継承、親から子へ /兵庫
ダモイの夢:シベリア特措法成立1年/3 遺骨DNA鑑定 /兵庫
ダモイの夢:シベリア特措法成立1年/2 元抑留者補償、実現へ向け要望 /兵庫
シベリア抑留:神奈川の猪熊得郎さん、あす大田で講演 /東京
ことば:シベリア抑留 /兵庫
WriteBacks
writeback message: Ready to post a comment.